Meron Sweet

趣味について、自分なりに考える場として利用していきます。

宗教の在り方

お盆ともなれば、お坊さんにあう季節である。いや、先祖に感謝をする日である。

未成年である私は、お盆ともなれば親に寺に連れて行かれる。

するといつもの坊さんではなく、その長男がお経を読んでくれた。

いつものお坊さんは亡くなっていたようで、長男が継いだそうだ。

その若いお坊さんの話が私にはとても心に残っている。

お坊さん「グレープフルーツ」


嘘である。


お坊さん曰く、お盆というものは、先祖を供養して、いつまでも地上で悪さをしないようにお経を読んで、天国に行ってもらったりするものだけではなく。

お坊さんという職業や仏教というものも、悟りを開いて、如来になろうなどというものだったりということだけではない、と言う。


仏教発祥であるインドでは、汚いものは皆左手で触るそうだ。握手や食事などはすべて右手で行う。左手は悪いものを押しのけるときに使うそうだ。


南無阿弥陀というのはナマステのナマ、南無という言葉からきているらしい。


ナマステ、南無阿弥陀といいながら両手を合わせるということは、左手である汚いもの、悪いものと共に、綺麗な右手を合わせる。

つまり今、私は善も悪も受け入れた。あるがままの私ですよ。ということだそうだ。


お坊さんがこの話を通して言いたかったのは、先祖に感謝する気持ちと共に、先祖、あるいは如来に対して、今、自分はどうなのかな。と自分を見つめ直す機会として欲しいということだった。


信じれば救われるとか、救いを求め、何かを求めてすがりつく宗教を悪いとは思わないが。


このように尊い教えから学ぶ為の宗教はとても素晴らしいと思う。


神を信じなければ地獄に落ちる。このtシャツを買え!

なんて言っているのが宗教だと思っていたが、そうではないのだと、分かった出来事でした。


この若いお坊さんも、父親の死に直面して、この宗教を通じて、自分を見つめ直して、色々考えたのでしょう。


今、目の前にあるものを通じて、

私は今、どうあるのか?

それを考えてみたいものでありますね。

アニメは日本に置けるハリウッド映画?

最近、なんたらの団体の公募した、アニメキャラクターが女性蔑視だうんたらかんたらで反対署名があつまったという記事を片目で読んだ。

ここで言いたいのは、アニメーションは、他の文化にも劣らない立派な文化であるということである。

根暗で地味な格好した人々が愛好しているというのは真実である(たぶんw。)だがだからといって、その文化が恥じることがあると認識する必要はない

現実逃避に用いられるというのは事実かもしれないが。
誰しも現実から離れたいものではないだろうか。

あらゆる娯楽というのは現実を忘れる為のツールという側面も持っていると思う。

スポーツやってる時は嫌なことも忘れられる。映画見てるときは、趣味をしているときは、友達と話すとき、このブログもそうである。

なのに何故それらに優劣をつけようか?
映画や歌舞伎がゲームやアニメより高尚であるか。私はそう思わない。
全ての文化は等しく平等である。
私は等しく文化を愛する。人々を愛している。

誰しも現実から癒されたいのである。娯楽にはそういう需要があるのだ。

スマホゲーが普及したのも、手軽に癒されれば、それに越したことはないからだ。大掛かりなゲームで、大掛かりなステージをクリアーする必要はなくなったのだ。

話がそれたが、本題の、映画とアニメ、その文化の類似点を述べたい。

個人的にアニメと映画は似ていると思う。監督や作者が表現したいものを、アニメは何枚もの絵が表現するが、映画はセットや俳優が表現するかの違いでしかないと思うからである。

ようは表現媒体の違い。画用紙でクレヨンで書くか、モニターにペンタブで書くかぐらいの違いだと感じる。

確かにそれぞれ文化について異なる点がある。アニメ文化は所謂オタクと呼ばれる可愛い女の子を見て萌え萌えしたい種族であるから。その手の表現にも重きが置いてある。
作り手もビジネスであるから、買い手の需要をを反映させるのは当たり前である。古代の画家たちもそうしてきた。たぶん。
(ここで商業主義やストーリー薄な萌えアニメを否定するつもりはないそれはそれで良さがあるのだ)
そういった文化が形成されていった。
だがだからといって、ストーリーはグリコのオマケ程度のお粗末な物かといえばそうではない。

アニメの利点として、二次元であるという特性上、とても自由であるということが挙げられる。それと比較的低予算で作れるということ。
例えば空を飛ぶシーンを、映画なら役者を中ずりにしたり、飛行機にしがみつかせたり、多様なcgを使う必要はなく。線と塗りだけで表現できるところである。
アナログにはアナログの良さがあるのだが、ここでは置いといて、
アニメーションはその特性上。とても自由に表現できるのだ。
現実ではありえないこと。できないこと。伝えられないこと。真っ白な用紙にとても広い自由な表現がのびのびと広がっているのだ。

監督や作者しだいで、いかようにもできる。魅せられるというのがアニメーションの魅力なのだ。

アニメだからこそのどんでん返し。ゲームという特性を生かしたストーリー構成。そんな沢山の監督や作者がやってきた作品が、とても魅力的なのである。
ここで作品名をあげればきりがないが、今放送中のがっこうぐらし!というアニメはアニメという特性を存分に生かした物だと思うので是非見て頂きたい。

あとはさよならを教えてなど上げていけばきりがない。

オタクだの根暗だの蔑まれてきながらも育まれてきた。この文化を私はとても素晴らしいと思う。

文化に優劣などはなく、それぞれの道でしかなく、アロマのように、それぞれに楽しみ方があるということを、
覚えておいて欲しいのである。
それが楽しむ秘訣であると思うのだ。

下ネタという概念が存在しない退屈な世界を見ました。

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新宿に本を買いに行くまでに録画してあった文を一気見しました。

近年規制が厳しくなったアニメゲーム文化に対する皮肉がテーマ( そこまで深い意味はないと思いますが笑)なのでしょうかね。

不健全を規制するほうが人間の不健全なのではないかというテレビで放送するのは面白いテーマでした。

性に対する一部
のタブー視はすごいですよね


性は人類もとい生物である我々の尊いリズムなのであって、それを抑圧するのは、逆に不健全なんじゃ?みたいな。なんじゃタウン?
 
抑圧へのレジスタントという燃えるテーマも良かったです。


上坂すみれの歌うEdも良かったですね。。




日本人がするべきワークアウトの捉え方2

日本人でありアメリカ、カリフォルニアの大会でも優勝を果たした北島達也さんというボディビルダーの方が、YouTubeに公開している動画にて、「トレーニングとワークアウトの違い」について語っていました。(http://youtu.be/aVYRwtYhQ5c

大方mind、意識についてのお話で、筋トレにおいてマインドというのは、とても重要な位置を閉めるのですが(ミスターオリンピアを6連覇したアーノルド・シュワルツネッガーもよくマインドについて話をしていました。)

このマインド。筋トレだけではなく。あらゆる物事に対する取り組み方。にも同じことが言えると思います。(シュワルツネッガーの筋肉を通じた成功哲学が私は好きです。


取り組み方が違えば、成果が違います。人生に対する向き合い方。取り組み方。自己との向き合い方。そういったものについても育めるのが筋トレの良さなのです。


ただやみくもに筋肉をつけてる人はいますが、真剣に自分に向き合ってワークアウトをしている人もいるのです。

何に置いても、ここが、大成する人と、しない人の別れ目だと私は思います。


何においても真摯に取り組む姿は美しい!ギリシャ彫刻が伝えたかったものです。スポーツ少女最高!という話でした



日本人がするべきworkoutの捉え方

批判するつもりではないが、日本という国は、欧米に比べて、筋肉、特にボディビルに対する理解のなさ、知識のなさが、他の先進国に比べ、極めて高い水準にあると思う。

そういう私も、今世筋トレという世界に出会うまでは、ムッキムキのボディビルダーの方々を、気持ち悪い、ナルシスト、黄金虫の標本、オバマみたいだと思っていた口であった。

これはある意味、我々が無意識にとっている「偏見」であり、未知のものに対する拒否反応であったと思う。

我々は普段目にしないもの、初めて見るもの、理解できないものに対して知らず識らずのうちに「キモい」という価値判断をとることがある。

知らず知らずの内に我々は、自分達は正しい、みんなそう思ってるのだから、間違っている筈はないと考え、そう教わってきたからだ。

それが偏見や差別、イジメや迫害、ひいては戦争を引き起こしているのはいうまでもない。

我々の民族の方が優れている。我々の宗教の方が優れている。自分達の方が立派だ。我々の社会の方が優れていると。

そういう考えが、他人を断罪し、迫害するのだ。

思うに正しさとは一つではなく。あらゆる角度から見た、あらゆる正しさがあるだけなのだ。

話が大きく発展したが、言いたいのは、自分が必ず正しいとは思わないことだ。ということである。

ということで、これを見たあなたに、今回はボディビル、ひいてはワークアウトについての理解を改めて貰いたいと思う次第である。