自己を規定するもの
服装、振る舞い、行動、判断等によって、人は自分というものを規定している。
「人生に意味はなく、全ての意味は自分が与えるものだ。」
私はこの意味を本当には理解してなかった。
サラリーマンはスーツを着る。
医者は白衣を着る。
芸者は着物を着る。
富裕層は高い車を買う。
学生は制服を着る。
だけど、政治家もスーツを着る。
化学者も白衣を着る。
晴れの日には芸者でなくとも着物を着る。
軍隊も制服を着る。
人生、全てのものに意味はなく。意味は自分が与え、自分を示すためのものだ。
ちゃんとしてるという意味でスーツを着る人もいるし。
かっこいいからという意味でスーツを着る人もいる。
前者は、ちゃんとしているという意味を与え、ちゃんとしている自分というものを規定している。
後者は、格好いいという意味を与え、格好いい自分を規定している。
よれよれの格好をした男が2人いる。二人は金もなく、仕事もなく、学もない。
一方の男は、その状況を恨む、なぜこんなに悪いのか、駄目なのか。自分には価値がないと考えるかもしれない。
そうしてその男はその状況に、悪く、駄目で、価値がないという意味を与える。
それによって、悪く、駄目で、価値がないという自分を選択し、規定している。
もう一方は、その状況を良いことだと考えた。金もなく、仕事もなく、学もないのは、その後の人生の為のチャンスだと捉えた。
金がないのなら余計なことをしないで済むし、仕事がないのなら自由になれる。学がないのなら余計な知識に振り回されずに済む。
それによって男は、自由で、良い自分を選択し、規定する。
自分というものは、人生、社会、他人によって規定されるものではない。
それにどんな意味を与え、それによってどんな自分を選択し、宣言し、示すか。それによって自分を規定するのだ。
それが自分を再創造するということだ。
無意識的に行ってきたものを、意識的に行うことで、こうありたいという自分を選択するのだ。
今、あなたはこの文章にどんな意味を与え、どんな自分を規定しているだろうか。
ある体制があり、それに意味を与え、それに歯向かうのなら、そういう自分を規定するのだ。
それに意味を与え、従順なら、そういう自分を規定するのだ。
すべての選択、判断は自分というものを規定するものだ。
すべての行動、振る舞い、言動、判断、行動に至るまでのすべてが、あなたという人間を規定しているのだ。
人は人生を通して、自分を示す為に存在しているのだ。
大切なのは何をしているか、よりもそれをしている時、どんな人間なのかということだ。
目の前の困った人を前にして、あなたはどんな意味を与え、どんな自分
を規定し、宣言するだろうか。
親切な自分を経験するだろうか。
嫌味を言われて、戦争を仕掛けられて、ドジを踏んで、
あなたはそれらにどんな意味を与え、どんな自分を宣言するのだろうか。どんな自分を表現するのだろう。
それは人それぞれだと思う。だからこそそれが美しいのだ。
それを意識的に行えば、社会や他人、その他の全てのものに振り回されることはないだろう。
人生に意味を与え、自分を規定し、選択し、宣言しているのは自分なのだから。
こう在りたいと思う自分であることだ。
自分にはその力があるのだ。
意味を与え、意識的に自分を選択する。
失敗をして、無意識的に自分は駄目だなどと思わないように、それがあなたを規定しているのだから。
意識的にそれができれば、どんな状況でさえ、恐るにたらないというものだ。
地獄の痛みでさえ、それに意味を与え、自分を規定し、選択すればよいのだ。
あなたはこれまで多くの人がしたように、痛みに苦しいという意味を与え、苦しみ続けるか?
それとも、成功のためのプロセスだと思い、喜びとして受け取る人間だろうか?
すべてのものに意味を与え、自分を規定し、選択し、宣言しているのはあなただ。
あなたは人生を通して、どんな自分を示し、表現したいだろうか?
人生は限りない自己の表現の場でもあると思う。