プロダクトの理念
これを書くにあたって、How Google work を読んだ。
曰く、現代に於いて、マーケティングを制するよりも。質の良いプロダクトを作ることによって、それはネットの口コミによって、爆発的に広まるだろうということだ。逆に、質の悪いプロダクトはいくらマーケティングに金を投じたところで、それは悪い口コミによって消化されるだろうというのだ。
フォードの、私は客の意見を聞いていたら、速い馬を探しに行っていたという言葉もあった。
私はこれを読んで感心したのだ。そしてふらっと、とあるカフェに入った。
そこは質が高いと言えたが、ある意味質が悪いとも言えた。
そこはまるでホテルの高級ラウンジを思わせるような、ラグジュアリーな場所なのだ。しかも価格も安く、300円でマックよりはるかに美味しいハンバーガーに、サービスのタルトまでついてきた。とても質が良い。
それなのに奇異なのは何か、それは私以外の客が誰もいないのだ。広く取ったカフェは、何やらガランとしていた。
よく考えてみると、そこは居心地が悪かったのだ。高級な調度品と、洗練された空間において、人はむしろ居心地の悪さを感じるのかもしれない、良い店だったが、長居はできなかった。
人はむしろ、散らかった自分の部屋の方が落ち着くのではないか、むしろその方が質が良いと言えるのではないのだろうか.
あまりに洗練されすぎた西洋的空間に人は変えって萎縮してしまうのではないか、それに比べ日本家屋のあの落ち着きは何なのだろう。
それは、あえて間違いを作るからだと思う。完璧な人間、完璧な空間、完璧な環境にずっといたら、人は疲れるのだ。
人は完璧なのではない。理論上の完璧を追求した空間。洗練さには大きな間違いがあると思う。
完璧そうに見える人間にも、欠点があった方が可愛げがあるしホッとするではないか。
私は数学や理論が好きではない。そこには人間の余地というか落ち着きが感じられないからだ。完璧に数値化、理論かされた人間などロボットではないか。私はそのようなあり方は人間のあり方ではないと思う。
人は不完全さを求めるのだ。そこに安らぎと安心を求める。
なぜなら社会は「完璧」だからである。完璧でない人類が完璧になろうとしているのだから疲れることこの上ないだろう。さらに人は他人や社会に完璧さを求める。そんなプレッシャーの中で、人は完璧になどなりたくないのだ。
そんなのは人の生き方ではない、完璧でないが故、それが自分のアイデンティティになり得るのだ。
完璧な人間、完璧な空間、完璧な社会など無個性に等しい。
科学や理論により何が線か決められ、統制されて、洗練されすぎた社会では、人間の尊厳はないと言える。
あるのは、優れた文明というくだらない満足感と、
プライドだけである。
我々は均一化された空間で、もはや機械になることを選んだのである。