Meron Sweet

趣味について、自分なりに考える場として利用していきます。

メモ

年下や年上、人間関係がうまくいったケースは、お前が「何を得られるか」を考えなかったからだ。そして「何を与えようか」と考えたからだ。

年下から得ようとは思わないし、年上には与えようと思っていた。

初対面やたまに会う付き合い、家族ぐらい吹っ切れている人からは、「得よう」とは思わないからだ。むしろ最初は、「与えよう」とするはずだ。

だからうまくいった。

だが、少し親密になったり、なりそうな同年代となると、「何を与えられるか」ではなく、
「この人から何を得られるか」を考えるようになる。

だから人間関係が破綻してきた。
破綻してきた人間関係を見ればわかるだろう。
得ようとしてきた人に拒まれるか、自分が得られない、価値のないと思った人を切り捨ててきたのではないか。

そして自分がそうされるのを恐れている。

人間関係は、「自分を分かち合う相手を持つこと」だ。

お前は、ある時にはそうしてきて、それを実感してきたはずだ。

選り好みをし、価値がないと判断されれば捨てる。
そのような人間関係をしてきた。
だからこそ逆の立場になるのを恐るのだろう。

だからこそ権力を欲する、力を欲する。「選り好みされ、捨てられる側」ではなく、「選り好みし、捨てる側」でありたいと思うのだろう。
根底にあるのは恐れだ。

それは、弱者と強者、為制者と被制者、加害者と被害者。
自分はそんな世界で生きているのだ。

そんな世界で生きているのは、弱者だろうと強者だろうと愚者だ。
「適者生存」という幻夢の世界に迷い込んでいる人がどれだけいるだろう。
強くなろう。誰よりも強く。誰よりも優れて、誰よりも高貴に。誰よりも…
そうあろうと心がけてきた。
根底にあるのは恐れだ。食われるのは怖いのだ。捨てられるのは怖いのだ。ならば強くあらねばならない。優れていなければ騙されるだけなのだ。弱ければ虐げられるだけなのだ。

他を出し抜き、一番でなければならないのだ。それだけが原動力だった。それだけが唯一の目的だった。

だからこそ、それに気付いても、この幻想を捨てれば、大切な何かを失うと感じたのだ。
「優越」という幻想の迷路の中で永遠に迷っている。
それが私なのだ。ただ「優れている存在」でいようとしている。

幻想を幻想だと見抜き、それを「努力の原動力」として活用するのではなく。

「与える」人間関係をしているならば、そのような心配はしなくなるのだろう。

人と「分かち合う」ことのできる人間関係は、どれだけ心地の良いことだろうか。
そんな優しい人間関係に、私はどれだけ焦がれるだろう。

ただ「優れた」(劣った)だけの自分は、自分でも誰でもないのだ。

だが同時に、「優越」という幻想の世界は甘く魅力的な世界でもあるのだ。下剋上だの争いだの競争だのは楽しい。(ゲームやスポーツのように)

だから幻想は、そんな甘い現実を体験にする為に、活用する為にあるのだ。(優越がなければ、勝ち負けの楽しみも、ロマンスも、人生と呼ばれるような素晴らしい経験もないだろう)

その為には幻想を幻想であると見抜かなくてはならない。そうでないと、その幻想の中で迷子になるからだ。私のように。
仏陀やキリストがそう教えてきたように。幻想から覚めなければならない。そうした上で、幻想ともう一度向き合わねばならないのだ。

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