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Meron Sweet

趣味について、自分なりに考える場として利用していきます。

インターネットに置ける倫理、正義という狂気

倫理というものは至極曖昧なものだと思う。

時代によって考え方は変わるし、倫理や正義感は不変ではないからだ。
 
15世紀から18世紀にかけての魔女狩りや、ホロコースト、その他多くの事件。
 
恐ろしいのは、実行した彼等から見れば、何も間違った事はしていない
ということだ。
彼らは彼らの倫理、正義感に基づいて、彼らの考え方から、当然の事を行っただけなのである。
 
このように倫理は絶対的なものではない。
 
だが人は絶対的な倫理を求める。
絶対的にあれが正しい、あれは間違いと、絶対的に正しい人間でありたがる。
 
だからこそ倫理は人を殺す。神や、権威や、倫理の名の下に、
 
罪人や異端者、その他「良くない」とされた人や物を、迫害し、死刑にし、追放するのだ。
 
「自分は、自分達は間違っていない。そう思いたいがために。」
 
なんと愚かだろうか。盲信的な正義ほど愚かなものはない。
 
最近のインターネットがいい例だ。
盲信的に、モラル的ではないとされる人や物、企業などに執拗に攻撃を始める。
 
彼らはモラリストではない。モラルを盾にして、正義という名の下に「報復」を行いたいだけの偽善者である。
彼らは分かっているはずだ。こんなことをしても、何にもならないのだと。ただ「報復」したいだけなのだ。
ただ報復し、自分が「善」だと。絶対的な倫理の、自分は「大丈夫な側」で在ると認識したいのだ。
人々による「絶対的な倫理」において「悪」見做されれば、それはもう死んだと同じことなのだ。
 
社会的な死、社会的な敗者、社会的な弱者にならないように、他人を蹴落とし、見下し、優越し、競争し、勝利し、安全な位置に居ようとするのが人間であり、現在の社会の有り様なのだ。
 
「法の裁き」がある、「罰」という社会の決めた報復が存在する
人々は「犯罪者」になるのを恐れる、それは悪者はいけないと教わってきたからだ。
 
古くからの伝承、昔話、ヒーロー物や、あらゆる映画で、
「悪」は人々の決めた「善」に倒される。完膚なきまでに粉々にされ、彼らの尊厳などは気にもとめられず、社会に不都合(悪)とみなされただけで、不幸になる。宗教でも「悪」は地獄に送られるとされる。
 
我々は、そう「願って」きた。都合の悪い「悪」は滅びればいいと。そう「教えられてきた」。
 
インターネットで攻撃、つまり「悪」を叩いている人々も、彼らから見れば、何も間違ったことはしていない。
教わってきた通り、そう信じてきたように、
「悪」とは倒されるべきものであり、「悪」は不幸なものであり、「悪」は地獄に送られてしかるべきなのだ。その逆は、あってはならないのだ。
悪は許されてはならない。神は彼らを許さない。
彼らの「倫理」はそう教えている。
「悪」になら何をしてもいい。「悪」は殺せと。
罪を犯したものは打ち殺せと、宗教でもそう教えられてきた。
 
 
では、「悪」を決めたのは誰か?それは人間である。人間の都合、はたまた、個人の、社会の、国の都合により決められてきた。
 
では、倫理とは何であろうか。
何の為に倫理が存在するのか。
倫理は何のために必要なのか。
何を持ってそれが正しい、それが間違っているとするのか。
 
それは、「機能すること」である。
 
我々が倫理や、社会のルールを守るのは、
皆が幸せに暮らすために「機能するから」である。
 
平和な社会の為に、「人を殺すこと」は機能しないから、しないのだ。
 
決して、断じて絶対的な倫理というものがあって、だからしていけないのではない。
 
単純にそれが「機能しない」からしないだけなのだ。
 
スーパーに行きたい男が、その場でジャンプを繰り返していてもスーパーには行けない。
 
料理を作りたい男が、踊り狂っていても、料理は完成しない。
 
ゆえに、機能しないから、そんなことしないのである。
 
だからと言って、ジャンプしている男を罰するか?死刑にするか?
 
俺たちは料理が作りたいんだ!と言って、踊り狂う男を迫害するか?縛り上げて火あぶりにするか?
 
それはあなた方の目的に本当に「機能」するだろうか。
 
そんなことをするより、こうしたいのなら、こうしたほうが良いのではないですか?と導いて、教えてあげるのではないか?
 
アドバイスするだけでいいではないか?果たして、罰する必要はあるのだろうか?
 
それが倫理(機能性)であり、ルールだ。
 
我々が幸せになる為のルールであり、それ以外のものではないのだ。
 
我々がルールを使うのであって、
 
ルールに使われる我々ではないのだ。
 
倫理に囚われ、倫理の「機能性」という本質を忘れ、
盲目的に倫理に飼いならされている人がどれだけいるだろうか。
 
倫理によって他者を迫害し、正義の名の下に暴力にでる物がどれだけいるか。
 
大事なのは、倫理という古い考え方ではなく、「機能性」を持った、新しい考え方である。
 
古い考えが過去には機能したかもしれないが、今には機能しないのだから。
 
「倫理」は我々が幸せに暮らすという目的の為のものであって。
 
ルールによって、人を断罪するものではない。
そんなことをしても機能しないからだ。
 
機能性とは、目的や対応に照らして、正しいか正しくないかだ。
 
暴力(殺人)を止める為に暴力(殺人)に出るというのは本末転倒ではないか。
 
それはテロという狂気の思想である。
 
平和というものは、反戦運動という闘争から生まれるのだろうか。
 
我々は今、古い機能しなくなった倫理にしがみつくか、
新しい機能性の倫理を変革していくか迫られている。
 
真の目的は、倫理の達成ではなく、
我々の幸福である。
 
古い憲法に縋り付き、機能性を無視し、絶対的な倫理という幻想に縋りついても平和は為されない。
 
そういう人々の行動を見れば、全く機能していないのが分かる。
倫理に基づいて、他者を断罪し、批判しかしない。
全く機能的な発言とは言えない。
 
そういう倫理に踊らされた人々が、倫理によって、戦争をし、迫害をし、死刑をし、報復という生き方を選んできたというのに。
 
 
我々は、古い倫理形態から脱出し、
 
真に機能する、新しい倫理を創って行くべきだと私は思う。
 
何が倫理的かではなく、
何が機能的かを考えるべきだ。
絶対的な倫理は存在しない。
 
 
倫理を作り出すのは、神ではなく、我々人間なのだ。
 
 
イエスはオリーブ山へ行かれた。 
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、
御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。 
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、
イエスは身を起こして言われた。 
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」 
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 
これを聞いた者は、年長者から始まって、
一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 
イエスは、身を起こして言われた。 
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。 
だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」
 
 
どうか人々を慈しみ、全てに寛容であって欲しい、
 
そして倫理を疑って欲しい。神は人々を決して裁いたりはしない。
 
そして何の為の倫理だったのか、もう一度思い出して欲しいのだ。