美しさと神聖と狂気
美しいものを見ていると、そこに神聖を感じることがたまにある。
美しい文字、美しい詩、美しい思考、美しい音、美しい空気。
美しいと感じるものは、同時に懐かしくも感じるのです。
どんなに新しいものでも、懐かしく感じる。
光の中に包まれるような。そんな感覚。全てが一体であるような感覚。
そしてそれを無性に表現したくなるのだ。
美しさを通じて、神聖を表現しようとしている気がするのです。
だから美しいものと美しくないものがわかる。神聖であるものと、そうでないものが分かる気がする。
いや、神聖でないものなどありえないのかもしれない。
この文章も、自分はなにか神聖なものを表現したくて書いている気がするのだ。
この表現したくて、もどかしくなる気持ちが分かるだろうか、母体に還るようなこの感覚はなんなのだろうか。
新手の精神病なのだろうか。
古代から我々が芸術や文学や音楽で表現しようとしてきた物はなんなのだろうか。
それがどこか懐かしい、たった一つのような気がするのだ。
我々はその一つを実に様々な方法で表現しているにすぎないような。気がするのだ。
鉛筆やクレヨンや絵の具や泥や鳥屋朝夜蒸し野菜や季節のメニューで伝えたかったものはなんなのだろうか。
人生を通して我々が表現してきたもの、それはなんなのだろうか。
変だなと思う人は、頭のおかしいやつの戯言と聞き流してください。。
たまにこの世界の美しさ、素晴らしさに打ち震えそうになることがあるのです。
私は神の特別な光のなかで生き、そして愛す。
I live and love in God’s peculiar light.
ミケランジェロの言葉ですが、美しい物を見ていると、見出していると、そんな神聖な気分に、文字通り打ち震えそうになるのです。
時折狂気を感じることがあるのですが。このように、人間面をして、書いていますが。
この狂気に身を委ねたらどれだけ楽なのだろうと思うことがあります。
そんなことをしたら、この社会では、精神病の烙印を押され、社会に適応できなくなってしまいます。という恐れがあるのです。
昔であれば、異端者として尋問や十字架にかけられたりしたのでしょう。
人間の面をした獣、人は皆犯罪者なのです。人間全体が、自分の赴くままにアナーキーになったらどうなるのでしょうか。
そうならないために人は人の形をつくり、自分たちを押し込めているのかもしれませんね。
狂気=真の自分なのかもしれないという恐れが抑圧が原罪が罪の意識、自己卑下がとても大きなストレスになっています。
素直に自分を行動したら、他人に迷惑をかけるのではと思ってしまうのです。
私には、ミケランジェロのように周りから疎まれて、異端尋問にかけられても偏屈を通せるメンタルはない。
ちょっと秀でたひとと、そうでないの人は、頭がいかれてるかそうじゃないかだと思います。
一線を超えられるかそうじゃないか。クレイジーハンドっていうのがスマブラにいたのを思い出しました。わかめ。レンコン。ぶた!(大声)
単に寝不足なんだと思います。。斎藤百連発。江戸前オイル20連発。
サンダル地獄。
これ以上ふざけると自分の中の何が壊れそうなのでやめておきます笑。おやすみなさい。