Meron Sweet

趣味について、自分なりに考える場として利用していきます。

筋トレをしている人は本当に年収が高いのか? 幸福の条件とは?

筋トレをしている人は、そうでない人よりも年収が高いという統計があるらしい。


だが、

筋トレをするから→年収が高い、のではなくて

年収が高くて、比較的余裕のある人、が→筋トレしてるだけなんじゃなかろうか

 

統計マジックというか言葉の妙というか。

 

だが、お金がある人、社会的に成功しやすい人、ほど→自己管理ができて、着実に努力して、健康に気を使ってる、というのも本当なのかもしれない。

 

いや、自己管理ができて、着実に努力して、健康に気を使ってる、から→社会的成功を収めるのかもしれない。

 

なんにせよ、こうだからこうだとか、こうだからこうでないとか、

 

愚衆である我々は、そういった、条件に拘るのだ。

 

学歴さえあれば、いい会社にはいれば、いい人間関係が作れれば、

 

善い人間であれば、賢ければ、信仰心があれば、健康であれば、センスがあればお金があれば、

 

それがあれば、人は幸せであると思っているのだ。

だからこそそれを巡って人は争う、醜くも人を出し抜こうとする。

信じる神や、周囲にいい顔をして過ごそうとする。

 

我々は、社会的な成功や、幸せである一部の人間は、選ばれた人間であると思い込んでいるのだ。

 

だからこそ人は条件を追い求める

 

成功している人と、そうでない人の違いは何か、幸せな人とそうでない人の違いは、、

 

正しい宗教か、努力か、かっこよさか、どうしたら天国にいけるのだろうか、、

 

だからこそ、人は自己啓発本などを読みふけり、「良識派」や「自分は賢いと思ってる人」「成功を語る人」「偉人気取り」のブログや情報教材、セミナーなどから学ぼうとする。

 

「個性」なんていうものが神格化されたのもそのせいだ。

 

皆、「選ばれた人間」でありたいのだ。そう気取るのだ。

 

ご立派だが。それは本当に幸せなのだろうか?

 

先の話に戻るが、筋トレ→高収入 はこう言い換えられる

 

条件→幸福。 果たしてそうだろうか?

 

そうではない。

 

幸福→条件。 なのだ。

 

幸福な人が持っているものを見て人は「条件」をつくりだすのである。そしてそれを真似ようとする。

 

幸せそうな社長を見たら、社長になろうとする。

 

幸せそうなスポーツ選手を見たら、スポーツ選手になろうとする。

 

永遠と石をつんで幸せな人を見たら、永遠と石を積むだろう。

 

だが、それは本当にあなたの幸せなのだろうか?あなたの道だろうか?

 

幸せになる唯一の道なんてないのだ。

 

幸せのために、目の前の「形」にとらわれないで欲しい。

 

また「形」に囚われて、そうでない人、貧しい人、陰気臭い人、学歴のない人、仕事に恵まれない人を、

 

自分や他人の「形」をみて、

あの人は不幸せだと決めつけないことだ。裁かないことだ、見下し、馬鹿にしたり、優越しないことだ。

 

 

幸せは、「持っているもの」では決まらないのであるから。

 

条件付きの幸福は、今ある幸せをかき消してしまう。

 

愛すべき人に囲まれていながら、平和な国で何不自由なく過ごしながら、「あれ」がないから自分は、他人は不幸であると決めつけないことだ。

 

 

 

どう在るか、どう生きるかは自分が決めるものだ。

 

そして、

「幸せ」とは、その道で自分が「見出す」もの。

 

今いる道は、本当に自分が歩んでいたい道なのだろうか、

 

そう自分に問いかけて欲しいと思うのだ。