間違いは正さねば(罰しなければ)ならないのか。
近時、様々な人の「間違い」が話題に上がり、数多くの人が非難し、断罪しているが。
果たして、「間違い」とは、本当に正さねば(罰さねば)ならないモノなのか。
私は問いたい。
本当に、得体の知れぬ「正義」だとか「倫理」だとかによって、人を断罪し、制裁し、命を奪う必要があるのか。考えてみてほしい。
アメリカは、「悪いことをした日本」に核を落とした。その日本でも、死刑制度が残り。犯罪者や、悪い事をした人を執拗に責め立てる傾向がある。
以前倫理や正義について書いた事がある。
皆「間違いは正すべきだ」と思ってるし、「悪い事をした人は、地獄に送られるべきだと思っている」
だが、その元になっている「倫理」や「正義」とは一体何なのだろう。
盲信的にそれらを信じて「コレは間違い」「コレは正解」だの判断しているそれは何なのだろう。
マチガイだからやらないのか?セイカイだからやるのか?
その判断基準を疑ってみてほしい。
今求められているのは功利主義に基づいた「機能的な行動」だ。
もはや使えない古い「倫理」や「正義」に基づいて判断するのではなく。
「目的に照らして、何が適切か」考えるべきなのだ。
もう一つ、倫理とは機能性だ。その本質は何が役に立つのかと言う考え方だ。
「何が正しいのか」そんな古臭い考え方ではなく、「何が役に立つか」それを考えるべきだと私は思う。
であれば、懲罰よりいい方法が見つかるはずである。間違いを正すより。「うまく行く道」を探すべきなのだ。
あなた方は、「正義」や「倫理」や「法」の名の下に、罰し、「復讐」や「脅威を排除」しようとしているだけだ。
そんな考え方で平和が築けるだろうか。
今求められているのは「何が役に立つのか」という功利主義ではないか?
付加価値とは何か。物質に価値はない。アート。自己表現の価値。
初めに行っておこう、付加価値とは、その人の「自己表現」の価値である。神性さの表現である。
物質至上主義が変わりそうな今、話をしよう。
はたして「物質」自体に価値はあるのだろうかと。
答えは、NOだ。物質というのは、人生を表現するための「表現媒介」でしかない。
たとえば、印象派の絵画の素晴らしい価値はどこにあるだろう。絵の具の乗り方のパターン?古い紙?
私に言わせればあんなものただの、絵の具で汚されただけの紙だ。ピラミッドや世界いさんだって土の塊、偉大な音楽だってただのノイズでしかない。
では、それらただの物質が価値を持つのはどういう時だろう。
それは、人によって自己表現がされる時である。
その筆使いのひとつひとつから、ノイズ、土や石の塊から、人間の感情、その当時の気持ちや考え。それらが表現されて見えるからだ。
読み取れるそれに価値がある。その物質に価値があるのではない!
いわば物質世界というのは、人生によって自己表現をするための、大きなキャンパスだ。だから、そこで何をするか、ではなく、それで何を表現するか。が大切なのだ。
石を積み上げることが大切なのではない!、石を積み上げようと思った人間の意志の、思いの、表現こそが重要なのである。
それに価値があるのは、それに人間の尊厳や神性さ見てとれるからであるからして、石を積み上げることはさほど重要ではないのだ。
人生においてもそうだ、そこで何をするか、ではなく、それによってどんな自分を示すか、表現をするか、にあるのだ。
そこにこそ価値があるそこにこそ発展があると私は信じている。
物質を追い求めるのではなく、それによって我々が何を表現するかの方がはるかに大切だと思うのである。
自己表現としての洋服
人はだれしも、認められたい、人より優れていたいという思いがある。
俗世間に生きる中で、正常な反応だと思う。だが、その中で「本当の自分」を見失っていると感じることが多いのだ。
では「本当の自分」とはなにか。自分探しの旅をして、やって見つかるものなのか?
そうではないと私は思うのだ。
本当の自分というのは、「自分がこうだ」という自分だと私は思う。
この記事をあなたが見るということは、それに気づいているからかもしれない。
人は生まれながらに自分というものを持っているのではなく、自己とはいろいろなことを経験し、考える中で、自己を選択し、自己表現によって自ら決めるものなのだ。すなわち。あなたはあなたを今という時の中で作っている。
いろいろな考えや価値観が今、あなたの頭の中にある。あなたはそれらに都合のいいように自己を決定し、創造し、体験するだろうか。
他者に受け入れられる自分、他者より優れている自分というのは、本当にあなたなのだろうか?
自己表現というのは、そう言ったエゴとたびたびぶつかるのだ。
エゴというバラバラの世界に生きて、「本当の自分を表現すること」を忘れていること、これこそが悲劇である。
洋服にしてもそうなのだ。他人よりイケていたりだとか、他人よりセンスがいい、わかっていると思われるような服を着て、何が自己表現であろうか。
他人にどう思われようと、あなたは自分の好きな服を着ればいいし、好きな自分を生きればいいのだ。それが他人に認められたり、優れたりしていなくても、あなたはあなたがありたい自分に常にいるべきなのだ。
自己表現を比べられるとおもっていること自体おかしいのである。全ては色であって、表現の一つに過ぎない。赤色が水色よりすぐれているだろうか?
オレンジは紫よりイケてるだろうか?そんなものは時代とともに変わるだけの価値観でしかない。
そんなものに振り回されず、あなたは着たい服を、ありたい自分でいてほしい。
そうして初めて自己表現というものの意義を意義を持つのであると私は思うのだ。
これから主流になる電子音楽(エレクトロ)へのススメ
今回はエレクトロがどうたらこうたらは書きません。最近嵌まっているクールなエレクトロソング達をブリブリホットに紹介していこうと思います。
これらを聴けば、エレクトロのなんたるかは丸わかり。
クールホットな音楽達が、あなたをこれからの音楽シーンへ引っ張って行ってくれます。
(エレクトロについてもっと詳しく知りたい方はこちらの記事をどうぞ。)
まずは有名どころから入るのが定石でしょうが、そんなのは知りません。
とびきりマイナーな、でもカッコイイ音楽達が集まるエレクトロ界のいわばパリコレ、流行がここから生まれると言っても過言ではないと言えるsoundcloudから紹介します。
毎日大量にリリースされる音楽達にはアマチュアの曲も多く、ここからプロになる人も少なくないです。
そう、無限とも言えるエレクトロシーンにおいて、多様で大量のアプローチが生まれる場所がここsoundcloudなのです。
...助長になりましたが。まずはこれ。
正直ジャンル分けとか多様化しすぎててわかりません。ハウスかな?
ですがこのファッキンブリブリソング、楽しいでしょ?それだったら細かいことなんていいんです。
知能指数を0にして、えげつなく体を振り回して楽しむのがダンスミュージックですから。
ある意味理性の外側でアプローチする、芸術分野ならではなのかもしれません。
何も考えずアホになって全裸で暴れまわる。それがダンスミュージックダンスミュージックにおける品格なのです。
続いてはこれ。
さっきの曲に比べたら知っている人も多いのではないでしょうか?
エレクトロダンスミュージック好きだけど、ウルトラフェスとかは軽薄で音楽性がない。。なんていう人の見方、Zeds Deadです。
デッドマウス、ジャスティスなどの、あるいみ純粋な電子音楽として好きな人はこちらが好みだと思います。
音楽性よりもノリを重視した最初に紹介した曲よりも、随所に音楽としてのこだわりやセンスが見られます。
ダークなクラブミュージックよりですかね。
どんどん行きます、これ。
ダンスミュージックばかりだと、お腹いっぱいだと思うので次はちょっとお洒落な曲。
地下のジムで、聞きたいような曲ですね。こう言う曲を流す洒落た薄暗いバーみたいなジム作ったら人来そうですかねえ。
最近知った人なのですが、この人の他の曲もセンスに溢れていてオススメです。一度聞くと、これを無性に聴きたい気分の時がたまに来ます。
次は。
異色の天才続きになりますが bo en という方です。元々ゲームのBGMを作る人で。言われてみればBGMっぽいなという印象を受けます。
日本のカルチャーが大好きらしく、日本語を勉強してるとのことで、曲中に彼の日本語で歌った声が聞けます。
その経歴と世界観が、魅力的なボーエンワールドを生み出しています。
ハマるときっとあなたも好きになると思います。
関係ないですが、twitterでは拙い日本語で話してるのが萌えます。
次は、
天下のSkrillexが持つOWSLAからリリースされた曲のリミックスです。
原曲もいいですが私はこのリミックスが好きです。
ターンンターンと入る、スタブに打たれて、リラックスする、自分の中で癒され曲です。
続いて、
しゅごくないですか、アニメからサンプリングした音声が綺麗にはまっていて聞いていて心地がいいです。
これからのエレクトロにおいてサンプリングは重要項目だと思います。
あとニコニコ動画などの音MADに通づるところがあります。
ちゅぎ
またまた鬼才、ごちゃごちゃしてんのが最高にクールって感じの曲を作る人です。この人の作るリミックスもすごいのでよかったらぜひ見てくださいう。
ということで、わかりやすく飽きてきたのでこの辺にしたいと思います。
今回紹介したサウンドクラウドは、ワナビーも含めて、エレクトロ、いや音楽シーンで、最も活発な場所のうちの一つであると思います。
是非、自分の耳で、新しい時代の、新しい音楽を聴いてみてください。
技術が発達した今、作るだけなら誰でも簡単に音楽や何もかもの作り手になれる時代です。
そんな中で、様々な人が様々な音楽を、いろいろな思いで、いろいろなものを作っています。
これからの時代がどうなっていくのかはわかりません。
ですがだからこそ、この音楽の中に、人々のこれからの可能性や希望や夢やそのエネルギーを感じるができると思います。
エレクトロは時代や人とともにますます発展していくと思います。
あなたもエレクトロの見せてくれる未来を、少し覗いてみてはいかがでしょうか?
「ねばならない」ことなどない。
あなたは今、「自分には、しなくてはならないことがある。」そう思いだろうか。
あれをしなきゃ、こうしなきゃ、このままじゃいけない、なんとかしなきゃ。
そしてその必要なことをすれば、それは思い通りになる。そうお思いだろうか。
でも、何かおかしいなと。疑問に思っているのではないのだろうか?
本当にそれをしなくては、幸せになれないのだろうか?疑うべきだ。その考え方を、そして問いかけてみるべきだ。それが本当なのかどうか。この現実について。
あなたは本当は全てを知っていて、まだ思い出していないだけかもしれないのだから。
話が逸れたが、我々は、「必要な物を充分に手に入れられないと、幸福になれず、愛されもしない」そう考えてきた。
そして「手に入れるには課題を果たして資格を獲得しなければならない。」そう信じている。
あることをしなければ幸せになれない。ルールを守らなければ、高学歴をとらなければ、いい会社に就職しなければ、お金がなければ、これはこうしないと、これはこうじゃないと、ああして、こうして。こうじゃないと。そうして法律や宗教、指針が出来上がった。
昔の人はあらゆることをして、子供を殺してまで、神を喜ばせようとした。
それが、天国へ入り、幸福になる為の資格だと思っていたからだ。
現代でも同じようなことをしている。人はいつもなにが必要かを考え、様々な資格を手に入れようとしてきた。様々な条件を考え、そうなろうと努力してきた。
「しなければならない事がある」と信じれば、それが何かを知ろうとし、それを達成しようとする。
「達成すること」が今のあなたがたの神だ、彼を喜ばせれば、幸せになり、天国に行けると信じている。
あなたを縛っているのは、ああしなくてはいけない、これではいけないという「ねばならない」とする考え方だ。
もう一度考えてみて欲しい。本当にそうなのか、疑ってみて欲しい、自分の考えを。
信じていることを。認識を。
あなたは、何も必要としないのだ。しなければいけないことなんて何もない。
あなたは完全な自由だ、縛っている唯一のものは、あなたの考えだ。
あなたの認識が変われば、あなたの見る現実も変わるだろう。
そして気づくだろう、自分には全てが与えられていたことを。
そのうえであえて、今この一見都合の悪い現実を経験し、そして掛け替えのない自分という存在を楽しんでいたのではないかと。
あなたは何のために生まれてきたのか?神に乞い願い、都合のいいことをするために生まれてきたのだろうか。
簡単で、都合が良すぎるゲームなど、楽しいものだろうか。
不都合だからこそ、体験したいと思ったのではないか?
あなたの周りは、いつも完璧だったのだのだと気づくだろう。
全てが成長のための天使であり、贈り物であった事を。
すべてが完璧であると知れば感謝をするだろう。
全てに完璧さを、全てに天使を見て、全てに祝福し、愛し、感謝をする生き方をするだろう。
出会う人一人一人が天使に、移ろう景色が光に。文字の一つ一つまで、あなたを祝福していたのだと。
全てに完璧さを見て、全てに感謝をし、
全てを愛すること通して現実は変わり始める。
メモ
年下や年上、人間関係がうまくいったケースは、お前が「何を得られるか」を考えなかったからだ。そして「何を与えようか」と考えたからだ。
インターネットに置ける倫理、正義という狂気
倫理というものは至極曖昧なものだと思う。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、
御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、
イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、
一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」