Meron Sweet

趣味について、自分なりに考える場として利用していきます。

真の個人主義とは?

とりわけ利己主義と誤解されたり、この言葉を歪んで捉えて利己的な振る舞いをする人が居て、この言葉を嫌う人がいたり、
今にして、何なのかよくわからない存在、言葉であると思う。

だが個人主義は、利己主義でも利他主義でもなく。
まして独り善がりでもなく、
真の個人主義とは、全員、もとい自分を幸せにする最高の在り方なのだ。

「日本式の個人主義とは、困っている人を放置

ここにも書かれているように、真の個人主義とは、全体の中の自分(個人)のあり方を決め、それらを相互に尊重し合うというものなのだ。

例えば、アメリカでは、たくさんの人種や沢山の考え方を持つ人がいるが、誰しもアメリカを良くしたい!という気持ちは同じなのだ。
100人いれば100通りの方法がある。考えがある。
だからこそ、方法や人種、考え方は違えど、相互に理解をし合い、尊重し合い、その中での自分の立場を全うしようとするのだ。
その中で、自分の役割を認識し、そと立場として貢献しようとするのだ。
個人主義は、皆同じ目的を持つ仲間として、考え方、方法は違えど、互いに尊重し、理解をしあい、高め合おうとするのだ。
その中で、
だからこそ、どちらが正しいとか言って対立はしない。
どの方法が一番とか、どの考えが一番とかは言わないのだ。

全体の中での自分の役割、立場を見出し、貢献する。
これが個人主義の真髄である。

それは全体の中での自分というものを規定し、それらを受け入れ尊重しあうという私の存在論にも繋がる。

家族の中で、会社の中で、国の中で、世界の中で、自分の役割、立場はなにか。そして、他の考え、違う立場から別の貢献しようとする人を尊重し合い。理解しあい、高め合おうとするのだ。

クリーニング屋はクリーニングによって貢献するし、花屋は花を売ることで貢献するのだ。

どちらも方法は違えど同じ仲間なのだ。だからこそ尊重し合い。
クリーニング屋の方が偉いとか、花屋の方が優れてるだとかそういうことは言わない。
医者の方がパートより偉いとか、頭脳色のほうがとか、資本主義じゃないととか言わない。
それはその人の仕事、役割、考え方の結果なのであって、話し合って理解し合うことがあっても、尊重を欠くということはありえない。それが個人主義なのである。

すべては、貢献の1表現にすぎないのだから。それぞれが、それぞれを活かして自分の役割を担えばいい。

一人一人がそうして、全体の中での自分の立場をしっかりと意識をして、自分の役割に誇りを持ち、互いに尊重し合い、高め合えれば、どんなに、素晴らしい、幸福な、家族、社会、国、ひいては世界が出来上がるであろうか?

これが個人主義なのだ。

汝、隣人を愛せよ。それが「個人」の幸せにも繋がるのだから。

ワンネスという考えを引けば、
我々は一つの存在であり、その個別化なのだ。
他者にしてやることは、自分にしてやること。
他者にしてやらないことは、自分にしてやらないことなのだ。

個人主義が利己主義になるのは、
「自分」という定義が狭いからだ。
この世に生きる全てを「自分」とし、そのために行動する。
それこそが真の個人主義であると思うのだ。

他者はおらず、
全員が一体であり一つの、個別表現だと知ったら。人はどのように振舞うだろうか。今まで通り、自分を陥れ出し抜こうとするだろうか、自分に対して嘘や不安や暴力によって奪い取ろうとするだろうか。
自分を騙し振る舞うだろうか。
それとも自分に対して、愛を与えるだろうか。

他者に対する全ての行動は、自分の為にすることだ。
なぜなら他者は自分なのだから。

変化が欲しければ、まずは「行動」ではなく「在り方」を変える

我々は、「変化」を求める時に、

「結果を求めた行動」によってそれを成そうとする。


ここで言いたいのは、

だがそれが長期的で大規模になるほど、

表面的な行動ではなく、

まずは自分の「在り方」を変える必要がある。

そして行動とはそこから自然に生まれるものである。

それが変化を齎す。ということである。


人は「結果」を求めていると、「結果」が出なければ欲求不満になり前進をやめてしまう。そして敗北する。



わかりやすい例を上げれば、

「私、今日から勉強頑張る」と張り切る人、

「寝よう寝よう」として寝れなかったり、

その他大きな夢を語る人が挫折する経験を知っている、もしくは体験したこともあるのではないだろうか。


そのいずれも、「結果」を求めた行動で、「結果」が得られず、そのうち欲求不満になり、その前進をやめてしまうケースである。



では自分の「在り方」を変えるとはどういうことか。


ニール・ウォルッシュ著の本「新しき啓示」の言葉を借りれば(この本の名前を出せば賛否両論あるのは承知)


それは、「欲しい変化を、自分自身の在り方にすること」である。


例えば、アバウトに言えば、

勉強を続けたければ、「勉強を続ける自分」という在り方を選択すること である。


自分の在り方が変われば、その在り方から、自然と行動は起こってくるのだ。


あなたが毎日無意識に歯を磨こうとするように。


日々の行動は自然と変化する。



夜に寝たければ「寝つきの良い自分」を選択すればよいのだ。


あなたが変われば、夜になれば自然と眠っていた自分に気づくだろう。


だが多くの人は、人の「在り方」を変えるなんてそうそうできるものではないと思っている。


だがそんなに難しく考えることではなく、これは単純な話


それには「日々の生活の中で、在りたい自分を選択し、決定する」

ということを理解する必要がある。(またこう言うと、夢見がちな女性の書くポジティブ日記のようで恐縮だが最後まで聞いてほしい。)


前回、前々回にも繋がる話(詳しくはそちらで)だが、

人は生活の中で、自分がどんな人間かを選択し、規定しているのだ。

あなたは今も、行動によって、自分がどういう人間なのかを決定している。

あなたが歯を磨く時、磨かない時、顔を洗う時、洗わない時、

タバコを吸う時、体に害を与えるとしりながら食べる物。靴を左右どちらから履くかまで、

あなたはそれらの行為によって、自分がどういう人間なのかを選択し、決定しているのだ。


寝る前のミルクでさえ、あなたを決定している。


日々の練習やハードなトレーニングが、一般人とアスリートの在り方の相違を決定するように。


だが今は、あなたの長年染み付いた習慣的行動が、あなたという人間、在り方を規定している。


まずはそれに気づくこと、

そして、これからは自分のありたい在り方によって、日々を意識的に選択することだ。


アバウトだが、「勉強をする自分」

であれば、今、どのような選択をするだろうか。と注意を払うことである。

そしてそのように振舞うことである。それがいつしか、自分の在り方になっているだろう。


「勉強をする自分」は夜4時まで起きているだろうか。朝は何時に起きるのだろうか。人にどんなことを言うのだろうか。どんな事を考えるのだろうか。


そうすれば自然と在り方から行動を起こすようになるだろう。

そうして意識的に、自分を再創造するのだ。

「勉強をする自分」は勉強するのだから。


「健康的な自分」であれば、ここで何を選択するのか、害があると知りながら、タバコを吸うのだろうか。そう振舞うのだろうか。

誰に対して、何というだろうか。

バスを選ぶだろうか、徒歩を選ぶだろうか。


「自分がありたい偉大な自分」ならどうするだろうか。

キリストならどうするだろうか、ブッダなら今、ここで何を選択するだろうか。

それを教えられるのが宗教だ。

キリストや、ブッダ、モーセやラビや、過去の偉人の在り方、選択を知り、

どんな選択をすれば、その在り方になれるのかを習うのだ。


そして人は、自分の描くもっとも偉大なビジョンになる。自己実現をする。


それこそが進化であり、人間の喜びでもある。


だから、結果を得たいからと言って、在りたくもない自分になる必要はないのだ。


思うに結果などは必要ないのだ。

それは在り方の、結果でしかないのだ。

ただリンゴが落ちて潰れるのと同じことなのだ。



ガンジーは、まず、ある在り方を達成した。内から成し遂げたのだ。

その次に、やっと外に向かう行動をした。
彼は、行動の結果としてある在り方を獲得したのではない。

彼の達成した在り方が、行動に反映されていたのだ。」



以上がマイケルジャクソンの、マンインザミラーの歌詞のような、存在論でした。


行動ではなく、まず在り方こそが、長続きする変化をもたらす鍵だと思うのです。


外を変えようとするな、自分が変わるのだ。あなたが変われば、あなたは違う世界を覗くだろう。







自己を規定するもの

服装、振る舞い、行動、判断等によって、人は自分というものを規定している。

 

 

「人生に意味はなく、全ての意味は自分が与えるものだ。」

 

私はこの意味を本当には理解してなかった。

 

サラリーマンはスーツを着る。

医者は白衣を着る。

芸者は着物を着る。

富裕層は高い車を買う。

学生は制服を着る。

 

だけど、政治家もスーツを着る。

化学者も白衣を着る。

晴れの日には芸者でなくとも着物を着る。

軍隊も制服を着る。

 

人生、全てのものに意味はなく。意味は自分が与え、自分を示すためのものだ。

 

ちゃんとしてるという意味でスーツを着る人もいるし。

 

かっこいいからという意味でスーツを着る人もいる。

 

前者は、ちゃんとしているという意味を与え、ちゃんとしている自分というものを規定している。

 

後者は、格好いいという意味を与え、格好いい自分を規定している。

 

よれよれの格好をした男が2人いる。二人は金もなく、仕事もなく、学もない。

 

一方の男は、その状況を恨む、なぜこんなに悪いのか、駄目なのか。自分には価値がないと考えるかもしれない。

 

そうしてその男はその状況に、悪く、駄目で、価値がないという意味を与える。

 

それによって、悪く、駄目で、価値がないという自分を選択し、規定している。

 

もう一方は、その状況を良いことだと考えた。金もなく、仕事もなく、学もないのは、その後の人生の為のチャンスだと捉えた。

 

金がないのなら余計なことをしないで済むし、仕事がないのなら自由になれる。学がないのなら余計な知識に振り回されずに済む。

 

それによって男は、自由で、良い自分を選択し、規定する。

 

 

自分というものは、人生、社会、他人によって規定されるものではない。

 

それにどんな意味を与え、それによってどんな自分を選択し、宣言し、示すか。それによって自分を規定するのだ。

それが自分を再創造するということだ。

無意識的に行ってきたものを、意識的に行うことで、こうありたいという自分を選択するのだ。

 

今、あなたはこの文章にどんな意味を与え、どんな自分を規定しているだろうか。

 

ある体制があり、それに意味を与え、それに歯向かうのなら、そういう自分を規定するのだ。

それに意味を与え、従順なら、そういう自分を規定するのだ。

 

 

すべての選択、判断は自分というものを規定するものだ。

 

すべての行動、振る舞い、言動、判断、行動に至るまでのすべてが、あなたという人間を規定しているのだ。

 

人は人生を通して、自分を示す為に存在しているのだ。

 

大切なのは何をしているか、よりもそれをしている時、どんな人間なのかということだ。

 

目の前の困った人を前にして、あなたはどんな意味を与え、どんな自分

を規定し、宣言するだろうか。

親切な自分を経験するだろうか。 

 

 

嫌味を言われて、戦争を仕掛けられて、ドジを踏んで、

あなたはそれらにどんな意味を与え、どんな自分を宣言するのだろうか。どんな自分を表現するのだろう。

 

それは人それぞれだと思う。だからこそそれが美しいのだ。

 

それを意識的に行えば、社会や他人、その他の全てのものに振り回されることはないだろう。

 

人生に意味を与え、自分を規定し、選択し、宣言しているのは自分なのだから。

 

こう在りたいと思う自分であることだ。

自分にはその力があるのだ。

意味を与え、意識的に自分を選択する。

 

失敗をして、無意識的に自分は駄目だなどと思わないように、それがあなたを規定しているのだから。

 

意識的にそれができれば、どんな状況でさえ、恐るにたらないというものだ。

 

地獄の痛みでさえ、それに意味を与え、自分を規定し、選択すればよいのだ。

 

あなたはこれまで多くの人がしたように、痛みに苦しいという意味を与え、苦しみ続けるか?

 

それとも、成功のためのプロセスだと思い、喜びとして受け取る人間だろうか?

 

 

すべてのものに意味を与え、自分を規定し、選択し、宣言しているのはあなただ。

 

 

あなたは人生を通して、どんな自分を示し、表現したいだろうか?

 

人生は限りない自己の表現の場でもあると思う。

 

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干物妹うまるちゃん!見てます。

うまるーん

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完璧優等生JKが、家に帰ってゲームとコーラ飲みまくる系アニメでした。。


主要な女の子はまだ三人しか出てきてないのですが、どれもキャラが立っていて可愛い!


美少女だったら、人見知りでも、室内ニートでもむしろそこが可愛いという、美少女の新たな可能性を感じさせる作品ですね〜。(何言ってるんだ)

同じく放送中のモン娘、や下セカもある意味きわどいですし。


我々が抱いている信念やバイアスをぶち壊して、ストライクゾーン(性的な意味で)を広げてくれるのが美少女という存在なんですかね〜。美少女最高!


もう、「空き缶萌え」とか「魚萌え」とか、碁石萌えとか来るんじゃないだろうか。

艦隊やミリタリー要素萌えなんかがあるんで、本気で来そうで怖いですね。笑


まずはソフトに、空き缶娘のいる日常みたいなのから始まるんですかね…。


これからの萌えカルチャーはどこへ向かうのか…。



話が大きくそれましたが、きりえちゃんの話でした。

私はきりえちゃんが好みなんですけど、

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人見知りの変態設定だけどスポーツやってることである意味緩和されてるんですよね。

所謂学歴フィルター的な感じ?笑


うまるもそうですけど、怠惰から虚栄からその人格を形成してるんじゃないよ!これが自分だからそうしてるんだよ!

みたいな一本芯のあるところが好かれるんだと思います。

自信に満ち溢れて、ズルくないというか童貞どもはピュアな純真好きですから…

アニメにjkが多いのも、高校生はまだ汚れのない子供という面を持ちつつ大人という面も合わせることのでき…省略

でも好かれる人っていい意味で純粋だったり、子供っぽかったりしますよね。。


また考える癖が出ましたが、この作品は面白いです。

原作読んでないんですが、うまるちゃんが家に来る前の話とかを期待してます。

たぶん相当厳しい家で、今のはその反動?みたいな勝手な予想です。


今季はなかなかいい作品ぞろいですね〜。現実逃避が捗る(白目)

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」

D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

フランスの画家ポール・ゴーギャンの最高傑作とも称される絵画の名称である。

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我々が心から欲しているものであり、哲学の永遠のテーマである。

私がこんなブログを書くのも、我々が、その何かを思い出そうとしているのからだと思う。

stingのshape of my hart という歌の歌詞に

「He deals the cards as a meditation
And those he plays never suspect
He doesn't play for the money he wins
He don't play for respect」

彼は瞑想をするようにカードを扱う

彼は勝ち金のためにやっておらず、

尊敬を得るためにでもない。

 

カードプレイヤーの歌なのだが、

Sting from a 1993 promotional interview:

「カードプレーヤーについて書きたかった。勝つためでなく、何かを突きとめるために賭けをやっている、幸運や運命の中にある神秘的なロジック、科学的でほぼ神聖な法則のようなものを発見するために賭けをやっているギャンブラーについて書きたかった。つまり、この男は哲学者なんだ。尊敬されたいとか金のためにプレイしているのではなくて、ただ法則を知ろうとしている。何かロジックがあるはずだということさ。彼はポーカープレーヤーだから、自分の感情を表現するのは簡単なことじゃない。実際、彼は何も表現しない。仮面を被っているのさ。それはただ一つの仮面で決して変わることはないんだ。」

 

「He deals the cards to find the answer

The sacred geometry of chance
The hidden law of a probable outcome
The numbers lead a dance」

彼がカードを配るのは答えを見つけるためさ
運という名の神聖なる配列
起こりうる結果の裏にある隠れた法則
その数字に人は翻弄される

 

www.youtube.com

 

我々は長い間「数字」という現実に翻弄されてきた。そろそろ何かを思い出してもいいと思うのだ。

だからこそ私はブログを書くし、これを見たあなたが少しでも自分で考え、自分の考えで立ち上がり、もう一度現実を見て、人生をより力強く生きる、助けになればいいと思うのだ。

 

ブッダやキリストが言うように、我々はもうすでに全てを知っていて、全てを与えられているのだ。故に何かをする「必要性」は存在しないのだ。

 

そう聞いて、頭のおかしいやつだと考えたなら、その思いをもってそれを現実を生きるための糧にして欲しい。

 

ブッダは、「答を外に求めるな、答は内にある」といったが、

 

私のブログや他の全て、宗教に答えを求めないでほしいのだ。

 

 

それを通じて自分の内側にある神性に気づいて欲しいのだ、宗教はそのために存在する。

全てはあなたがあなたの神性に気づける為に存在しているのだ。

 

美しい雲も、道端の花の美しさも、子供の屈託のない笑顔も、素晴らしい音楽も、絵画も、詩もブログも。誰かとの別れや死でさえ。あなたが偉大な自分に気づくためのヒントなのだ。

 

 

外で咲いている美しい花々は神性を表現しているが、あなたは「自分という美しい花」を 感じて触れた時にだけ、神性を体験できる。

外にある表現は、あなたの内的な表現に導いてくれるが、決して代わりにはならない。

そして、内的な表現が外に向かって表現される時に、輪が完成する。

この輪(循環)が、生命/人生の目的であり、宇宙全体の働きなのだ。

 

だが、外にある神性の表現は、あなた以外の何か(誰か)の体験に過ぎないのだ。

 

それを自分の神性の体験にしてしまうと、あなたは内部を外部で代用することになる。


そうなると、あなたは『自分の内なる神性の力』から遠ざかり、自分の力を失ってしまう。

だから、あなた以外の何かを崇めさせようとする者には、気を付けなさい。

 

 

 あなた方を支配しようとする者は、一番高い地位に座りたがり、重い負担を作り出して人々の肩に担わせる。

 彼らは、豪華な衣装を身に着けて、人々から頭を下げられる事を無上の喜びとし、自分を「父」「最高の師」などと呼ばせたがる。


だが、あなたの本当の師は1人しか居ないし、その師はあなたの心の中に(魂に)居るのだ。

ニール・ドナルド・ウォルッシュ 新しき啓示 より抜粋

 

あなたは、あなたを信じて、あなたの道をゆくのだ。

あくまでこのブログや、他の素晴らしい人や物、偉大な哲学者や宗教指導者やアーティスト、美しく気高い神性を示すものは、

 

あなたが自身の素晴らしさや神性に気づき、それを表現するためのものに過ぎないのだ。

 

それを祟り、経験しようとするのではなく、自分自身の神性に気づいて欲しいのだ。

 

我々の中に特に素晴らしいものなど居ない、皆、自分の神性(この言葉は使いたくないが才能とも呼ばれることもある)を持っているのだ。

ただ、そのことを多く思い出している者がいる、というだけなのだ。

 

 

神性を見て、神性に気づき、神性を表現する。

 

今度はあなたがあなただけの神性を、

音楽や哲学、物や詩や、演技や言葉、彫刻やボディビル、作品や個展、あなたの人生を通して表現(体験)してほしいと思うのだ。

 

モーゼやキリストが奇跡によって神性を示したように、

あなた方が生み出した神性(あなたの体験)は、また誰かが自身の神性に気づき、それを表現するための糧になるだろう。

 

そうして輪ができ、循環が生まれる。

 

そのために世の中は素晴らしいもの、美しいもの(神性)であふれているのだ。

このブログも、あなた方を気づかせるための、美しさ(神性)を示すことを祈る。

 

NO PAIN NO GAIN

痛みなくして、何も得られない。

 
ボディビルにおいては、よく使われる言葉だと思う。
 
そのボディビル最高峰の大会で4連覇中のフィル・ヒースはこう言う、
犠牲がなければ、報酬は得られない。
 
その通りだと思う。
 
だが私自身、ワークアウトをしていて、痛いとは思うが、苦しいと思ったことはないのだ。
 
むしろ苦しさを感じる人は、その道の三流だと思っている。
(自分で言ってるだけだが笑)
 
なぜなら、私はそのことをやっていて、最高に楽しいのだ、幸せなのだ。
 
楽しいことに関しては、私は底つきぬ情熱を感じているのだ。
 
本来このような発言とは、それなりに結果をだした晩年の選手がいうことだと思うのだが、
少し感じたことなので、不肖私なりに書いてみたいと思う。
 
まず、何かをするということに対して、痛みは付き物だと思う。
 
歩くのもそうだし、受験に合格するためにも痛み(努力とも呼ばれる)が伴う。
 
だが、痛みは痛みで、苦しさとは別だと思う。
 
本当にそれが好きで、楽しみ、そのための手段さえ愛することができれば、それは「痛み」であって、「苦痛」ではないのだ。
 
私は昔から絵を描くことが好きだった。
とにかく真っ白な紙に、自分の好きなものを描くのが楽しくて楽しくて仕方なかった。
 
だから描いた絵の出来なんて、
ましてや人から褒めて貰うことなんてどうでもよかった。
 
ただ、「描いてる」ことこそが、その在り方こそが私の至上の喜びだったのだ。
 
そうしたら、それなりに絵は上達していたのだが、
私はそれを「辛い努力」とか、「苦痛」とは思ったことがなかった。
 
これを見てる人にもそういう経験があると思う。
 
楽器が好きだったり、昆虫が好きでたまらなかったり、はたまた勉強するのが好きだったり、夢中で何かしたいるのが、堪らなく嬉しかったことはないだろうか。結果に関わらず。
 
だが、「それこそ」が結果に繋がっているとも知らず。
 
ただ何かしてること、ただそう在ることこそが限りない至福に思えたことが。
 
だがそれを仕事や生き方としてとらえた時に、人はいつの間にか、
書いた絵の出来、他人の評価、
「結果」ばかりに関心がいくのだ。
ただ楽しくて描いていたのを忘れ、
人から評価されよう、良いものを描こうとするようになるのだ。
 
それこそが「苦痛」を産むのだ。
 
(蛇足だが、楽しく書いていた漫画家が、デビューしてから締め切りに苦痛を感じるのはこのためだと思う。笑)
 
ただ、描くこと、在ること(姿勢と言おうか)の素晴らしさを忘れてしまうのだ。
 
ジョジョの奇妙な冒険という作品にこんなセリフがある。

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「大切なのは、真実に向かおうとする意思だと思っている」

 

大切なのは、「姿勢」であり、「在り方」であり「意思」そのものなのだ。

 

結果が幸せをもたらすのではないのだ。

 

 

ただその在り方、努力に幸せを感じること。

 

成功を収めている人は、「その結果」

結果を手にしているにすぎないと思うのだ。

 

結果を手にしたから→幸せになるのではなく。

 

幸せだから→結果を手にしているのだ。

 

ミスターオリンピアで7連覇を成し遂げたアーノルドシュワルツネッガーはこう言っている。

 

「ワークアウトが楽しくないなら、止めればいい。楽しくないものを

無理に続けても、偉大なボディビルダーになんかなれっこないんだから。
偉大なボディビルダーになるためには、
ワークアウトを含む全てのボディビル生活を愛せなきゃダメだ。」

 
また、格闘ゲームに置いて無類の強さを誇る梅原大吾というプレーヤーは、
 
大会に勝って大喜びしたり、負けて落ち込んだりするのは右肩上がりの成長の邪魔だと考えている。喜びは日々の練習にこそ感じたい。
と言っている。
 
沢山の分野で、所謂「成功」を納めている人たちは、
そのものが楽しくて仕方ない。そのための努力が好きで仕方ない。そういう人たちだとおもうのだ。
そういう人が偉大になるのであって。
結果のために嫌々やるような人は、偉大にはなれないのだ。
 
ちょうど、ダイエットのために運動を始めた人が、リバウンドてすぐにやめてしまうように。
 
研究者、科学者、スポーツマン、アーティスト、経営者、アイドル、俳優。
 
尊敬すべき人は、その分野が、その生活が愛しくて楽しくて仕方ないのだ。
ただ楽しくて幸せなのだ。辛いことがあっても続けられるのはそのおかげだと思っている。
だからこそ結果というものも出せるのだ。
 
あなただってそうではないか?自分が一番幸せを感じ、喜び、楽しみ、情熱を燃やせるものはないだろうか。
 
その情熱さえあれば、いつか結果は報われるのだと思う。
いや、結果などなくてもそう在るだけで彼らは幸せなのだ。
だからこそ、結果を手にできるのだ。
 
報われないなどという人は、結果を見すぎて、「苦痛」を感じ、途中でやめてしまうのだ。
 
そして「結果」もでないのに幸せなんて、お気楽だねと蔑み。
絵空事だ夢を見過ぎだというのだ。
 
その人が結果も手にすれば、世の中不公平だと妬むのだ。
 
 
稚拙でいたらない説明だと思うが、私はこれこそが真の人の在り方だと感じているのだ。
 
私があなたが、これから歩む道は、どんな道なのだろうか。
 
私はその道を、愛し、楽しみ、慈しみ、幸せを感じるように在りたいと思う。
 
結果なんていうものは、
雪が積もった地面を、楽しくて踏みつけていた、
から付いてくる足跡のようなものだと思うのだ。
 
 
 
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美しさと神聖と狂気

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美しいものを見ていると、そこに神聖を感じることがたまにある。

美しい文字、美しい詩、美しい思考、美しい音、美しい空気。

美しいと感じるものは、同時に懐かしくも感じるのです。

どんなに新しいものでも、懐かしく感じる。

光の中に包まれるような。そんな感覚。全てが一体であるような感覚。

 

そしてそれを無性に表現したくなるのだ。

 

美しさを通じて、神聖を表現しようとしている気がするのです。

 

だから美しいものと美しくないものがわかる。神聖であるものと、そうでないものが分かる気がする。

いや、神聖でないものなどありえないのかもしれない。

 

この文章も、自分はなにか神聖なものを表現したくて書いている気がするのだ。

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この表現したくて、もどかしくなる気持ちが分かるだろうか、母体に還るようなこの感覚はなんなのだろうか。

 

新手の精神病なのだろうか。

 

古代から我々が芸術や文学や音楽で表現しようとしてきた物はなんなのだろうか。

 

それがどこか懐かしい、たった一つのような気がするのだ。

 

我々はその一つを実に様々な方法で表現しているにすぎないような。気がするのだ。

 

鉛筆やクレヨンや絵の具や泥や鳥屋朝夜蒸し野菜や季節のメニューで伝えたかったものはなんなのだろうか。

 

人生を通して我々が表現してきたもの、それはなんなのだろうか。

 

変だなと思う人は、頭のおかしいやつの戯言と聞き流してください。。

 

たまにこの世界の美しさ、素晴らしさに打ち震えそうになることがあるのです。

 

私は神の特別な光のなかで生き、そして愛す。

I live and love in God’s peculiar light.

 

ミケランジェロの言葉ですが、美しい物を見ていると、見出していると、そんな神聖な気分に、文字通り打ち震えそうになるのです。

 

時折狂気を感じることがあるのですが。このように、人間面をして、書いていますが。

この狂気に身を委ねたらどれだけ楽なのだろうと思うことがあります。

 

そんなことをしたら、この社会では、精神病の烙印を押され、社会に適応できなくなってしまいます。という恐れがあるのです。

 

昔であれば、異端者として尋問や十字架にかけられたりしたのでしょう。

 

人間の面をした獣、人は皆犯罪者なのです。人間全体が、自分の赴くままにアナーキーになったらどうなるのでしょうか。

そうならないために人は人の形をつくり、自分たちを押し込めているのかもしれませんね。

 

狂気=真の自分なのかもしれないという恐れが抑圧が原罪が罪の意識、自己卑下がとても大きなストレスになっています。

 

素直に自分を行動したら、他人に迷惑をかけるのではと思ってしまうのです。

 

私には、ミケランジェロのように周りから疎まれて、異端尋問にかけられても偏屈を通せるメンタルはない。

ちょっと秀でたひとと、そうでないの人は、頭がいかれてるかそうじゃないかだと思います。

一線を超えられるかそうじゃないか。クレイジーハンドっていうのがスマブラにいたのを思い出しました。わかめ。レンコン。ぶた!(大声)

 

単に寝不足なんだと思います。。斎藤百連発。江戸前オイル20連発。

 

サンダル地獄。 

 

これ以上ふざけると自分の中の何が壊れそうなのでやめておきます笑。おやすみなさい。

 

 

 

 

 

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