Meron Sweet

趣味について、自分なりに考える場として利用していきます。

後進国に対する「優越」という幻想

我々は、少なからず、なにかに対して「優越感」というものを持っている。

それは、民族的なことだったり、金銭的なこと、学歴やステータスと呼ばれるものだったり、容姿や頭の良さ、
コミニケーション能力だとか、はたまたセンスや個性なんていう曖昧なものまで、実に多彩である。

例をあげると、ユダヤ人は神に選ばれた選民である。
とか、欧米人はアジア人より優れている。
だとか、資本主義は共産主義より優れている。とか、

例を上げればきりがない。

だが日本人、はたまた先進国が抱いている優越において、もっともポピュラーなものは、

後進国は不幸である」という歪んだ優越思想である。

私がもっとも嫌悪する物の一つに、

化粧をした(社会派?)女優だかモデルだかが、
真面目そうな顔をして、ほんの2日間ぐらい後進国と呼ばれる国に赴くといった番組がある。

そこで現地の子供達や、その生活を取材するというものだ。

そこまではいいのだ、現地の生活や、文化などを理解しようとするのは、とてもいいことだと思う。

だがしかし、そういった番組が聞きたがるのはそこにある不幸なエピソードばかり、
貧しさで母親が大変だとか子供が学校にいけないだとか、
そういった哀れな話ばかりをしようとするのだ。

だが、そこにだって不幸ばかりではないはずだ。
彼らはそこに居て、生命の尊厳と共にそこに生きているのだ。

苦しいことも多いだろうが、日本人と同じように幸福はあるはずである。

彼らは自分達の生活に誇りを持っていると思うし。持つべきだ。
先進国と変わらないように、その生活の中で強く生きて、幸福を見出しているのだ。

それに対してリスペクトを払うべきではないだろうか。


川で魚をとって暮らしている部族に対して、あなたはスマホが使えないから不幸ですねと言うのだろうか。

森にいるクワガタに対して、お前はパズドラができないから不幸だなと言うのか、

宇宙人が突然やってきて、お前ら地球人はこの、ホニャレコフニコップス
が使えないから不幸だなと言われたらどうだろうか?

「我々には我々の暮らしがあって、それがあなたからみて劣っているとしても、我々はこの暮らしに誇りを持っていて、幸せを感じている。」と言うのではないだろうか?

クワガタはパズドラが出来なくても幸せだし、我々だってホニャレコハラコップスが使えなくたって幸せなのだ。

だとしたら、スマホが使えない部族も、後進国だって不幸ではないのではないか?

人の幸福というのは、必ずしも持っているもので決まるとは限らないのだ。

そういったことで他人を測るから、差別や圧制が起こる。

日本人のように贅沢ができなくても、帰ってきた母親の笑顔、友達と遊んだ時の楽しさ、やっとご飯にありつけた時の嬉しさ、
そんな幸福を感じることはたくさんあるはずだ。

なぜそのことを聞いてあげないのだろう。

楽しいことを、そこの文化を、芸術を、幸福を、祝ってあげようと思わないのだろう。

贅沢ができないから、これがないから、こいつは幸せじゃないと決めつけるのは、

それは大変に不敬ではないか。

例え後進国だとしても。彼らの文化、生活にリスペクトするべきである。対等であるべきだ。

その上で必要だというものは分け与え、彼らを援助することこそが真に大切だと思う。彼らの生活を「サポート」する気持ちが大切なのだ。

哀れみから、優越感から、支配欲から、偽善の心から行う支援は我々の自己満足だ。

それは「幸せな国」という優越意識を思い込まされた我々先進国からみた幻想であると思うのだ。

大事なのは、相手の、相手国の立場に立って、物事や気持ちを考えることだと、私は思う。

小学生で習ったような文句だ。

EDM(打ち込み)音楽の魅力と、私の最近のお気に入り。

打ち込み音楽と聞いて何を想像するだろうか、

有名な所だとedm(エレクトロダンスミュージック)、ニコニコ動画で有名なVOCALOID音楽といったところでしょうか。
 
打ち込みと今までの楽器演奏の違いは、作曲に実際の楽器を用いるか
そうでないかです。
 
今までのようにバンドを組んでそれぞれが演奏する必要はなく、一人でトラックメイクからミキシングまでできるのが打ち込み音楽の特徴なのです。
 
また、三次元で奏でる音(バイオリン、デカイバイオリン)のようないくつかの決まった音ではなく、ソフトシンセサイザーと呼ばれるもので、作り手によってあらゆる電子音を作り出すことができるのです。
 
ギターのように同じ音というのは存在しません。
つまり、楽器となる音から作るのがエレクトロ(打ち込み音楽)ということになります。
 
それゆえに、今までの楽器にとらわれた音楽からは、比較もならないほど自由度が高いのです。
 
クラシックと現代ソングのように、どちらにも良さがあってどちらが良いとかはないのですが。。
 
打ち込み音楽としての特徴は、どちらかといえばしっとり系音楽よりも、
テンション高め、アゲアゲフライフライピーポーピーポーのダンスダンスライフスタイル大満足音楽が主流となっています。
これを聞いてもらえると分かりやすいと思います。
 
今聞いてもらったのは、ド派手で過激な音に四つ打ちのサウンドが特徴のEDMの中でもdubstepというものである(このアーティストはbrostepとも呼ばれるが)
 
更に理解してもらうために有名ドコロを他にも、

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有名ドコロばかり紹介しても詰まらないので、興味の在る方は、youtube soundcloudなんかをチェックしてもらえると、自分のお気に入りも見つかると思う。

 

以下は私の最近のお気に入りを紹介していくこうと思う

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まずは、日本人トラックメ-カーであり、アンドロイドのCMでも注目されたbanvox。この人の音楽はまさに「格好いい」音楽でありcoolを追求したような。一つ一つの音が、よく漬け込まれたメンマのような、爽快さ味わえるような曲が特徴である(個人的な感想である)

楽器などの音楽経験はないそうで、小さい頃から聞いてきた音楽をもとに、ソフトを買い、作曲し始めたそうだ。音楽経験がなくても作れ、ネットにアップできる、有名になればデビューできる、という次世代の打ち込み音楽ロックスターを象徴するような存在。だと勝手に思っている。

 

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イントロがとにかく格好いい!全体を通しても現代的でオサレを漂わせる。中塚武というこのアーティストは「イケてるメロディ」とリズムが個人的に好きで聞きます。

 

 

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ここでボカロ?○すぞ!と思われた方。サブカルチャーの国大和に生まれて、ボーカロイドと言うだけで敬遠してしまうのは実に勿体ないと私は思う。アニソンもゲーソンもである。(嫌いなのは仕方ないですが)変なプライドは壊して、全てのものを楽しむのが私流である。

ボカロ、アニソン・ゲーソンの特徴といえば、可愛い声と癖になるフレーズ、メロディ、しっとりからのサビでアホみたいに盛り上がるボーカルである。

これはそんなソングに流行りのEDMエッセンスを加えたと思われる珍しい曲。

似たようなもので、futurebassの派生のkawaiifuturebassなどあるがここでは割愛。

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割愛と書いたが、あれは嘘だ。

futurebassとはneon、wavyなどともよばれる、サウンドクラウド界隈で賑わせているオーストリア発祥のジャンルなのらしいが詳しくは割礼。

 

英語が読める貴族なら分かる通り、「未来ベース」である。近未来的なサウンドが特徴で、詳しくは聞いたほうが早いが。近未来という性質上、数多くの近未来を描いた日本のアニメや漫画SF、カルチャーからも影響を受けているが。さらにオタクカルチャーに接近したものはKAWAII(かわいい)futurebassと呼ばれる。

個人的に聞いてて一番「面白い」ジャンルで、最近の私の一番のお気に入りジャンルである。

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またボーカロイドじゃないか!です。アキシブ系なんて言葉がありましたけどそんな感じですね

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majorlazerはtrapやレゲエ色が強く、キメてるような異色音楽の最高にcoolな形だと思います。1つめのMVはジャパンのマイコー(舞妓)がでていますね。

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最後は王道skrillex。最初にも紹介しましたが。EDMは、skrillexに始まりskrillexに終わるとアメリカのEDMサイコ野郎は言います。

brostepだのなんだかんだ言ってもこのアーティストはやはりいいです。

過激で、自由でのびのびとして、退屈な日々の日常をぶち壊してくれるようなサウンドが、人の心を掴むのでしょうか。

 

最後になりましたがここまで見てくれてありがとうございます。ぜひあなたに素敵な、打ち込みライフが送れますように。

筋トレをしている人は本当に年収が高いのか? 幸福の条件とは?

筋トレをしている人は、そうでない人よりも年収が高いという統計があるらしい。


だが、

筋トレをするから→年収が高い、のではなくて

年収が高くて、比較的余裕のある人、が→筋トレしてるだけなんじゃなかろうか

 

統計マジックというか言葉の妙というか。

 

だが、お金がある人、社会的に成功しやすい人、ほど→自己管理ができて、着実に努力して、健康に気を使ってる、というのも本当なのかもしれない。

 

いや、自己管理ができて、着実に努力して、健康に気を使ってる、から→社会的成功を収めるのかもしれない。

 

なんにせよ、こうだからこうだとか、こうだからこうでないとか、

 

愚衆である我々は、そういった、条件に拘るのだ。

 

学歴さえあれば、いい会社にはいれば、いい人間関係が作れれば、

 

善い人間であれば、賢ければ、信仰心があれば、健康であれば、センスがあればお金があれば、

 

それがあれば、人は幸せであると思っているのだ。

だからこそそれを巡って人は争う、醜くも人を出し抜こうとする。

信じる神や、周囲にいい顔をして過ごそうとする。

 

我々は、社会的な成功や、幸せである一部の人間は、選ばれた人間であると思い込んでいるのだ。

 

だからこそ人は条件を追い求める

 

成功している人と、そうでない人の違いは何か、幸せな人とそうでない人の違いは、、

 

正しい宗教か、努力か、かっこよさか、どうしたら天国にいけるのだろうか、、

 

だからこそ、人は自己啓発本などを読みふけり、「良識派」や「自分は賢いと思ってる人」「成功を語る人」「偉人気取り」のブログや情報教材、セミナーなどから学ぼうとする。

 

「個性」なんていうものが神格化されたのもそのせいだ。

 

皆、「選ばれた人間」でありたいのだ。そう気取るのだ。

 

ご立派だが。それは本当に幸せなのだろうか?

 

先の話に戻るが、筋トレ→高収入 はこう言い換えられる

 

条件→幸福。 果たしてそうだろうか?

 

そうではない。

 

幸福→条件。 なのだ。

 

幸福な人が持っているものを見て人は「条件」をつくりだすのである。そしてそれを真似ようとする。

 

幸せそうな社長を見たら、社長になろうとする。

 

幸せそうなスポーツ選手を見たら、スポーツ選手になろうとする。

 

永遠と石をつんで幸せな人を見たら、永遠と石を積むだろう。

 

だが、それは本当にあなたの幸せなのだろうか?あなたの道だろうか?

 

幸せになる唯一の道なんてないのだ。

 

幸せのために、目の前の「形」にとらわれないで欲しい。

 

また「形」に囚われて、そうでない人、貧しい人、陰気臭い人、学歴のない人、仕事に恵まれない人を、

 

自分や他人の「形」をみて、

あの人は不幸せだと決めつけないことだ。裁かないことだ、見下し、馬鹿にしたり、優越しないことだ。

 

 

幸せは、「持っているもの」では決まらないのであるから。

 

条件付きの幸福は、今ある幸せをかき消してしまう。

 

愛すべき人に囲まれていながら、平和な国で何不自由なく過ごしながら、「あれ」がないから自分は、他人は不幸であると決めつけないことだ。

 

 

 

どう在るか、どう生きるかは自分が決めるものだ。

 

そして、

「幸せ」とは、その道で自分が「見出す」もの。

 

今いる道は、本当に自分が歩んでいたい道なのだろうか、

 

そう自分に問いかけて欲しいと思うのだ。

洋画から学ぶ国際感覚とは?

グローバル化などと言われている、プリティx2な現代社会おいて、海外の文化というのは必ずしもファーな(遠い)存在ではないはずである。


ネットで海外の情報をknowできるのは勿論のこと。


映画、洋画、海外ドラマなどを通じても海外の文化だったり価値観だったり感覚だったりをknowできると私は考えている。真面目な話である


例えば英語のスレァングに(スラングに)

Mother fucker というのがある。

大抵クソ野郎だったり、臆病者という意味がある。


Fuckというのは性交するという意味の卑劣ワードである。


マザーは母親。


つまりは臆病すぎて自分の母親と性交するほどのクソ野郎が!


という意味なのだ。(たぶん)


日本でいうところの、御の字とか、そういう比喩なのである。


このように役者の言動や海外の人の話す言い回しなどから、支持されている思想、考え方、認識などはある程度は知ることができるのだ!!!!!awesome!(オー寒)


だがよく考えてみると、

海外にも日本に対して同じような人達がいる。

海外に居ながら、主に日本のアニメ!モーエ!文化から、日本文化をknowしたと言われる人々である。

彼らの思っている日本は、日本人から見ても少しズレがあると感じてしまう。アニメや漫画などの創作物は、創作物でしかないのだ。


海外からしたら洋画から学ぶ我々も同じような目で見られるのかもしれない。


結論として、

国内にいながら、洋画や漫画から学ぶのもいいが。

実際に行ってみないと、現地のことは何もわからないものだということだ。


どれだけネットが発達しても、

日本を含め「海外の人」というのは、結局海外に居る人というだけなのだ。

 

その中で誤解があったりは当然なのだろう。


やっぱり実際に海外に行って、自国とは違う文化や認識に触れてみたいなという思いがますます募った。


ただこの記事を書いて、ISの黒うさぎ隊の副隊長を思い出した。


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らうら



依存する愛情

 

インフィニット・ストラトスというアニメを見た。

内容を簡単に説明すると、女の子しか乗れない兵器に男で乗れちゃって、女の子しかいない学園に男一人で入学し、主人公が酒池肉林を楽しむという酒池肉林系アニメなのだ。

 

まずパンストと似ていると思った。キャラ描写やキャラ設定については、なんでこんな可愛いキャラクターが作れるのかというくらいカワイイのですが、ストーリーはおまけ程度といいますか。

ある程度のストーリーの中で女の子がワチャワチャしたり戦闘したりする系かなと思います。

テレビ放送のポケモンもそんな感じかな?毎回ロケット団が出てくるわけではありませんが。

 

キャラが立っているというか、作者に愛されているキャラ達だなーと思います。

 

それにしても女子校に一人だけ転入するなんてよっぽどのイケてるmen'sじゃないと陰湿ないじめに合いそうですね。。

 

私はラウラが好みです。

 

 

最近考えたのですが、年上や大人な女性が好みと言う人は依存心が強いと思います。

逆に年下すぎるのはそれはそれで...

 

愛とは本来必要性(依存)ではないと思うのです。

 

必要だから付き合うのではない、必要だから愛するのではないと。

 

そのような歪な依存関係はいつか崩壊するのですが、アニメキャラだったらそういう心配もないですね。声優が結婚してどうたらこうたらいう人々もそんな感じなんですかね。

 

自分を埋めるために人と付き合うのは、自他共にとって寂しいことだと思います。

 

果てしない依存の先に何があるのだろうと考えたという話でした。

 

ロードバイクのペダリングについて

ロードバイクのペダリングについては、筋トレ理論同様、未だ確立されておらず、都市伝説のような存在である。

だからこそ自転車のパーツが売れ。効果があるか分からない筋トレツールが売れるのである。

あるものは軽いギアでペダルを早く漕げと言い、あるものは重いギアをゆっくり漕ぐのがいいという。

ここで私が思うのは、アマチュアな存在ほど、手段に拘りすぎるということだ。

ある程度は手段が結果に影響するのは分かる。

だが手段にこだわりすぎて。肝心の目的が薄れていれば意味がない。

高級ホースを水圧の低い水が流れるようなものである。

我々は結果を求めると、安易な手段へ走る。

手段というものは、一つの道に例えられる。剣道、柔道などが一つの例だ。

どれだけ善いと思われる道を選択しても、そこでうろうろしていて、歩むことがなければ目的地にたどり着くことはない。

ましてやそこで、別の道の事を考え。歩みを止めてしまえば、そこまでだろう。

どのような道であれ、向かう先、目的地は全て同じなのである。

例えそこが荒れ果てた道であったとしても、他人の舗装路を眺めてばかりいては自分はいつまでたっても進まないのである。

最も優れた宗教などなく、哲学などはなく、人間などもなく、格闘技などもない。

あるのは道であって。そこでどう頑張るか。ただそれだけなのだ。

目指すは同じ道なのだ。そこで管を巻いて、手段ばかりにふけっていれば。進もうとしなければ、一歩も進まないメルセデスベンツなのだ。


どのような状況、仕事に置かれても、他人の状況や仕事など気にせず、
自分の目的地を見極め、その道を全身したいものである。

と偉そうなことをいう自分だが、私は自分の状況に耐えきれず、手段や周りの責任にして逃げてしまう人間であった。
恵まれた環境にいながら、それに気づかなかった愚か者であり。臆病ものだ。

だからこそ、自分が遅い言い訳を、ロードバイクや、配られたカードのせいにはしたくない。と思うのだ。

批判

批判して何になるのだろうか。


本人のために言うべきことを言うというのは必要だ。

だが、誰かにあれがこうでこれが悪いからこれはダメだといって何になるだろうか。


インターネットによって発信する立場が多くなってきたおかげで、批判的な文章を書く人が増えた。


自分の方が他人より優れているという人々を批判へと駆り立てる。


赤色が、黄色にお前ば彩度高いしダサいと言っているようなものである。

シャーペンがクレヨンにお前は使えないなどというようなものである。


黄色には黄色の、クレヨンにはクレヨンの良さというものがあるのだ。


それを社会的に役に立つかどうか、進歩的かどうか、効率的かどうかという偏った価値観によって断罪してなにになる。


何か一つの正しさなどというものは幻想である。

価値のないものなどないのだ。


人に批判されたからといって、自分に価値がないと思う必要はないのだと心得て置きたい。


宗教や権威、他人に正しさを求める必要などないのだ。


またその正しさによって、自分自身を間違っているなどと思わないように。


優越感こそ人の的だと思う。

自分が他人より優れているなんていうのは、幻想なのだ。


その幻想に囚われてしまう人がたくさんいる。


私の言っていることが正しいとは限らないし、それでいいのだ。


正しくなくたって、信じなくたっていいのだ。